フクシマは語る ~福島原発事故から8年を迎えて

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 今年3月2日に公開され、先日広島でも横川シネマ(期間:3月15日~3月21日)にて上映された話題のドキュメンタリー映画「福島は語る」(監督・撮影・編集・制作:土井敏邦)が話題を呼んでいる。ご存じない方はぜひとも作品のオフィシャルページ(http://www.doi-toshikuni.net/j/fukushima/)から予告編の動画をご視聴いただきたい。

「放射能から子供を守るため避難した母親の葛藤」「『逃げた』という冷たい視線」「『福島産は・・・』と敬遠される農家の苦悩」「出身地を語れない子供たち」「生きる支えの喪失」「自死への誘惑との葛藤」「”尊厳”のための闘い」「あの事故が全てを奪った」予告編に並ぶ字幕を追うだけでフクシマの苦悩が伝わってくる。

制作者の土井監督は、「日本は、2020年の東京オリンピックに向けて浮き足立ち、福島のことは『終わったこと』と片づけようとしているように感じます。しかし、原発事故によって人生を変えられてしまった十数万人の被災者たちの心の傷は疼き続けています。100人近い被災者たちから集めた証言を丹念にまとめました。」(一部抜粋)と語る。

東日本大震災および福島原発事故から8年。未曾有の大災害の記憶を風化させてはならないと、今年も新聞・テレビ各社がこぞって「あの日」を伝えるのを見聞きするが、地震・津波による災害と福島原発事故による災害とを一括りに、ただ「風化させてはいけない」と評することだけに終始してしまってはいまいか。

「風化」とは何か。辞書を引くと「ある出来事の生々しい記憶や印象が年月を経るに従い次第に薄れていくこと」(大辞林)とある。地震・津波の被害は、全体像をおおむね把握することができ、必要な作業とそれに要する一定の期間を経ることで、着実に復興が進んでいく。しかしそれとは異なり、福島原発事故はその被害の全体像すら明らかでなく、いまだ収束することなく放射性汚染物質を環境に放出し続け、解決への道筋も定かではない。そもそも「風化」と言える状況に到達していないのである。

これから先少なくとも数十年という単位で、解決に向けて国を挙げて継続して取り組まなくてはならない問題であり、東京オリンピックよりも何よりも、日本国にとって最大の課題である。そうであるにもかかわらず、昨今の原発問題をめぐるマスコミ報道はすっかり腰が引けてしまっている気がしてならない。この頃は福島第一原発の現状を伝える報道自体がめっきり減少し、フクシマ問題がかつて以上に見えにくくなってしまっている。

そればかりか、除染により「空間線量」が下がったことをもって一部避難指示区域への帰還を勧める国や福島県の方針を復興の前進として無批判に紹介したり、農作物や畜肉・魚介類など食品の放射能汚染の問題についても「風評被害」にだけ焦点が当てられ問題が矮小化されたりする傾向にあるなど、報道内容の正確性・公正性についても懸念を抱かざるを得ず、とりわけこの過酷な原発事故を経験してさえなお、日本政府および電力会社は、次々に原子炉再稼働を進めようとしていることの是非についての議論が年々下火になっていくのはなぜであろうか。まさに福島原発事故の記憶を「風化」させようとしているのはいったい誰なのかと勘繰りたくさえなる。

いまフクシマはどうなっているのか、何をすべき、あるいは何ができて何ができないのか。フクシマの今を正確に伝える報道を求める。そして住民の尊厳に目を向けた復興と、現実をふまえた将来のエネルギー政策を、国民的な議論にしていきたい。