核兵器廃絶の先頭に立つ国へ~歴史の真実を知り学ぶことの大切さ~

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 1927年(昭和2年)、関東軍の第一次山東出兵があり、アジア、特に中国に向けて干渉、侵略を拡大していった年である。満州事変が始まり、やがて支那事変(当時)と拡大していった。軍国主義の真っ只中に幼少時代、小中学時代を置かれていた。

 御真影奉安殿に最敬礼をし、祭日も登校して教育勅語を諦聴した。教科書も「ハナ、ハト、マメ」から「ススメススメヘイタイススメ」になり、神武天皇の長髄彦征伐、天孫降臨の神話が教えられた。中学では上級生や先生へ敬礼、学校には配属将校が常駐し軍事教練も必修課目だった。軍国教育はさらに進み、「わが国の軍隊は世々天皇の統率したもうところにぞある」「上官の命は朕が命と心得よ」とする「軍人勅諭」を暗唱、出来なければビンタが飛んだ。言論の自由などさらさらなく、只管、お上の命令に迎合することに終始し、個人主義は利己主義だとされた。

 太平洋戦争が始まり、真珠湾攻撃、マレー沖海戦。学校は授業を止め、軍艦マーチと戦果を伝える大本営発表に踊り祝った。流石に喜び過ぎと不安を覚えたが、ミッドウェー海戦以降、後退。ガダルカナルでの敗戦、インパール作戦の失敗、サイパン陥落とともに本土空襲が始まり空襲警報で防空壕にかけこむ毎日となった。

 軍国思想に取りつかれ、国のため、東洋平和のため、アジア諸国民の解放のためにと、学生たちは志望を変えて軍の学校を目指した。海軍兵学校、陸軍士官学校を受験し、1944年10月、江田島海軍兵学校に入校、鉄拳制裁にもめげず一途に訓練、勉学に励んだ。戦況が悪化すると、特攻攻撃に挑もうと自爆攻撃の訓練も行うようになった。1945年に入り空襲はさらに激しくなり、7月1日、呉市の自宅が全焼。それでも怯むことなく敵愾心を燃やし報復を誓った。そして8月6日、広島に原爆が投下された。

 朝食後、ピカッと閃光が走り、1分くらいしてドーンという音と共に爆風が押し寄せた。慌てて机の下に潜りこみ南側の窓を見ると、紅蓮に包まれたきのこ雲がすさまじい速さで上空に舞い上がっていった。8月15日、終戦のラジオ放送はよく聞こえなかったが、アナウンサーの話で敗戦したことがわかった。「負ける筈のない神の国」日本は全くの虚構だったのだ。

 敗戦後の食糧難と生活難は大変なものだった。畑を譲り受け農業に励みつつ、何時までもこの儘ではいけないと旧制広島高校を受験、医学部に進み医師になった。混沌とした社会情勢だったが、ポツダム宣言からの民主的改革が続き、一日一日が変化する時期であった。

 政治犯は釈放され、結社の自由、言論、集会の自由などの変化に反感をもっていた国民も、次第に「『民主主義』はいいぞ」と言うようになった。そして「日本国憲法」が制定された。しかし間もなく東西冷戦の深まりの中で変化していった。1948年に来日したロイヤル米国陸軍長官は「日本は極東の不沈空母」と呼び、日本は朝鮮戦争の兵站基地となり、板付空港(現在の福岡空港)からジェット機が飛ぶようになると、警察予備隊(自衛隊の前身)が結成された。そしてサンフランシスコ単独講和条約、日米安保が結ばれ、双務化の名のもとに「戦争法(安保法制)」が強行可決、日本を戦争する国にする「憲法改悪」の策動が執拗に続いている。アイゼンハウワー米大統領は「アジア人にはアジアを戦わせる」と言ったが、まさにその路線を進んでいる。

 歴史の真実を、あらゆる面から知り学ぶことが必要である。原爆などの残虐兵器がつくられ、戦争は人類滅亡につながりかねない。原爆の惨禍を受けた日本が、核兵器廃絶の先頭に立ち、平和憲法を持つ日本こそがその役割を果たすべきだと考える。